【フランコさんのイタリア通信。】

イタリア国内リーグのセリエAで活躍する選手の最年長組のひとりに、ロベルト・バッジョがいます。
カカやカッサーノなどの若い選手たちが現れても、バッジョのような「大物」たちは出番に事欠きません。
出番があまりないように見えても、彼ら真のチャンピオンたちは、ここぞという場面で、チャンピオンのチャンピオンたる所以の直感力を駆使し、出番を探し出します。
そのバッジョが見せたチャンピオンの底力が、思わぬところで、ひとりの人間の決断に追い討ちを掛けてしまいました。

10月18日土曜日、マッシモ・モラッティは彼のチームであるインテルの対ブレシャ戦が開かれたブレシャの街には行かず、ミラノの中心街にある自宅のリビングで、テレビで観戦していました。
この試合でロベルト・バッジョが、とんでもないゴールを決めたのです。
バッジョインテルにいた事があります。彼がいた頃のインテルは素晴らしい結果を残し、忘れ難い栄光のシーズンだったのですが、この日にバッジョが着ていたのはブレシャのシャツです。バッジョの、このゴールを見て、モラッティ会長は決心しました。絶対に笑顔を見せない頑固なアルゼンチン人、ク−ペル監督を解雇する、と。
2−2で試合は引き分けました。モラッティ会長は電話を取り、インテルの代表的な有名選手たちと話をしました。彼らにクーペルについての意見を聞いたのです。それからモラッティは、もう真夜中であるにもかかわらず、クーペル監督を自宅に呼びつけました。
「親愛なるクーペルさん、インテルは良い試合をしていませんねえ。勝たないじゃありませんか。選手たちも、もうずいぶん前から貴方を愛してはいないようです。私としては、貴方を解雇せざるを得ません」
まあ、おおよそこんな風に別れのことばが告げられたと思われます。解雇はされても、クーペル監督への大変に高額な給料は、2004年6月30日まで契約通りに支払われます。
モラッティ会長がクーペル解任の承諾を、反クーペルの選手だけから取り付けたのではありません。このアルゼンチン人監督と、より強いつながりを持つ選手たちの意見も聞きました。その結果が「解任」というものだったのです。

さて、クーペルに別れを告げた更にその後、夜はますます更けていましたが、モラッティ会長は、今度はアルベルト・ザッケローニという人物に電話をしました。ザッケローニは1989年にインテルの監督になるはずだったのですが、結局はミランに納まり、ミランのリーグ優勝も一回は導いています。
ところが、それが頂点で後が続かなかったこともあり、その上に政治についてのあれこれを頻繁に言うのが災いして、ミランから解雇されていました。
ミラン会長のシルヴィオ・ベルルスコーニはイタリア首相で右派の頭ですからね、ザッケローニが自分は社会主義者だと、言ってみればほとんど共産主義者だと公言しつつ政治の話をしたのは、どう考えてもまずいでしょう、やはり。ベルルスコーニの覚え目出たいはずがありません。
案の定、ちょっと試合に負けこむや、あっさり解雇されてしまいました。
さて、ザッケローニは10月22日水曜日に、インテルの新監督に就任しました。
その前の晩にインテルは、モスクワでロコモティヴと対戦したのですが、3−0で負けています。この時は一晩限りの監督、ヴェルデッリがベンチに座っていましたが‥‥
どうも今のインテルは、ぼろぼろです。このままではトップクラスには程遠く、チャンピオンズ・リーグでも苦戦中です。ザッケローニは、肉体的にも精神的にも立て直しの必要な、もともとは力のあるはずのチームをあずけられたという訳です。
彼は失業の身から一転、給料も高額なら宿題も膨大な仕事を抱えることになりました。
リーグ戦優勝の印であるイタリアンカラー3色のワッペン、「スクデット」も、インテルは遠い遠い1989年以来、手にしていないんです。チームの目標は、もちろんスクデット獲得でしょう。
いやはや、アルベルト・ザッケローニ監督の前途は多難と言わざるを得ません。
でも、バッジョのゴールがきっかけで、会長に解雇の決断をされてしまった前監督よりは、酷いことはないでしょう。
こう言ってみても、あまり彼への慰めになっていませんかねえ?僕としては、慰めているつもりですが‥‥。

    • 訳者のひとこと

イタリアでは、ローマ法王ヨハネス・パオロ二世の体調が一時は最悪で、もう時間の問題かとさえ思われたのですが、回復なさったのです、これが。奇跡だと言われているようです。
なにしろ1978年から25年にわたって、人々に愛されているヨハネス・パオロ二世です。イタリア中が心配していたのです。宗教に無関心な若者たちからも慕われていると聞きました。
インテルのティフォーゾたちは、この奇跡がインテルにも起きますようにと祈るような気持ちでいることでしょう。
http://www.1101.com/francorossi/2003-10-27.html